ホーリーランド

過去捏造の強イルカ話です
第十話  番狂わせ
 
 
 
 
私市はつい先程まで、突然もよおし始めた尿意に試合観戦の好位置を手放すべきかどうか、酷く迷っていた。
 
次の試合は自らが見い出した(ということに彼の中ではなっている)嵯巌チームが本選出場なるかどうかの大切な試合である。しかし生理現象もまたどうにもしがたく、葛藤の末に涙を飲んでその場を離れんとした、まさにその時だったのだ。
 
あの三傑の一人――宇賀耶と、彼の率いる天縫チームが、一一ブロックの試合を行っている第二闘技場へと姿を現したのは。
 
 
(死…死んでもこの場を離れんぞ……)
 
その顔は訪れつつある限界にちょっと青紫になりつつあったが、私市の覚悟は本物だった。
 
武闘評論家を名乗り始めて二十一年。結婚もせず、一人親から受け継いだ畑を耕し糊口を凌いできた寂しい日々。東凌武闘大会のような大きな大会からは一度としてお呼びが掛かった事も無く、評論家といっても本当に名ばかりの呼称に過ぎなかった。
 
当然有名武闘家と話す機会も無ければ、近くで目にするような事も無く。
 
だからこのような話しかければ届くような位置に、最強の名を冠するあの三傑の一人が立っているなどという状況は、私市にとっては生まれて初めてどころか、この先二度と有り得ないだろうとすら思われる僥倖だったのだ。
 
 
(――っ、たかが尿意程度で、この場は誰にも譲れん!)
 
 
唇を噛み締め、額に血管を浮かび上がらせながら、左斜め後方に立つ宇賀耶とその仲間達の会話に、必死で聞き耳を立てる私市。
 
そんな一人の男の悲壮な覚悟など知りもせず、宇賀耶達は第六試合を終えていよいよ予選決勝が始まろうとしている闘技場へと目を向けながら、呑気に本選に出てくるだろうチームの予測をたてていた。
 
 
 
 
「嵯巌チームってのもまあまあだったわね……」
 
そんな感想を口にする英保が推すのはしかし、例のカマイタチの技を使う男のいる蒼牙チームである。
 
「そうだな、彼らが相手では蒼牙チームも簡単には上がってこれまい……中々面白い試合になりそうだ」
 
どうやら大男守矢もまた、てこずる事はあっても勝ちは蒼牙チームで動くまいという意見のようだ。
 
一方宇賀耶の視線は、先程からずっと嵯巌チームの方を追っている。どうやら宇賀耶の予想は他の二人とは違うらしい。
 
「よーしっ、賭けようぜ! カマイタチ野郎のチームが勝ったら今晩は俺の奢り、その代りあっちのチームが勝ったらお前らが俺に奢るんだ!」
 
「何よ、珍しいわね、随分太っ腹じゃない」
 
「だが宇賀耶の勘は侮れんぞ……」
 
すっかり賭けに乗り気な英保にすかさず守矢が水を差すが、しかしそう言いながらも元々自分が目を付けていたチームだという事もあり、守矢もまた珍しく賭けに乗った。
 
物事を深く考えない宇賀耶は、賭け事に関しては勝ち負け半々、是も非もないといった程度の腕前だ。しかしここ一番という時の勘には目をみはるモノがある。それを周囲は野性の勘だと認識しているが、どうやら今回はその勘も働かなかったらしいと、二人に加えて他のメンバーもその賭けに乗ってきた。
 
結局四対一――これは他の観客達の予想ともそう代わらぬ確立だ。それだけあのカマイタチの技は、見る者に衝撃を与えたという事だろう。
 
「こりゃあ益々面白くなってきたぜ」
 
珍しく勘ではなくはっきりとした確信を持って予測を立てていた宇賀耶は、結果が出た時の周囲の反応を思い浮かべ、ぺろり舌先で唇を舐めると、ませた少年のような悪戯っぽい顔で笑って見せた。
 
 
 
*
 
 
 
これまでにない注目の中で少々緊張気味の求馬は、帆足の方をちらりと見て、今日何度目かの溜息を吐いていた。
 
相変らず帆足は様子がおかしいままで、今も不安を表す求馬に対し、助言の一つも無い。
 
代わりにイルカが背後に立ち、座った求馬の肩を揉むようにして優しく励ましてくれた。
 
「思い悩むのは後にしましょう求馬君。今は対戦相手の事を考えて……大丈夫、落ちつけばどうって事無い相手です」
 
どうやら二人の不協和音に気付いてくれているらしいイルカを見上げ、求馬は力強く頷いて見せる。
 
(…イルカがいてくれて良かった…本当に)
 
でなければ心配事を抱えたまま、こんな風に落ちついた気持で試合に臨むことは出来なかっただろう。
 
今はイルカの言う通り目の前の試合の事だけ考えようと、渦巻く歓声の中「先鋒」の呼び掛けと共に求馬は堂々と闘技場中央に足を進める。
 
 
「開始!」
 
そして求馬にとって三度目の試合が始まった。
 
 
相手は求馬よりも背が高く体格も良く、動きも決して遅くは無い。
 
互いの出方を警戒して、じりじりと近づく二人だったが、やはり最初に仕掛けてきたのは相手の方だった。
 
(大丈夫だ――見える)
 
道着の胸元を鋭く掴み上げに掛かってきた相手の側面に、僅か一歩で体を入れ替えつつ移動した求馬は、その左腕を相手の双椀の間に差し込んだ。
 
ついで左脇下から左方に水平に回し上げ、そのまま身を沈めつつ、浮かんだ体を左後方に勢いよく投げ捨てる。
 
一見するとただ足をひっかけ後ろにひっくりかえしただけにも見えるこの技のポイントは、投げる時に右腕を捻りあげる事で更に勢いをつける事だ。これも見事に決まれば、相手は音を立ててひっくり返り背中に息が止まるほどの衝撃を受ける事になる。
 
こういった接近戦の場合、普通に考えれば体つきで勝る相手のほうに利があるように思えるが、しかし意外にも
 
低い方が勝つ≠ニいう状況は決して少なくは無い。特に相手よりも低い姿勢となりながら技をかける投げ技では、多くの場合背が低い方に利があった。
 
この技もそんな、求馬の体格をうまく生かした基礎的な投げ技の一つだったが、しかし流石にここまで勝ち残った相手である。しっかり技が決まったかと思われたが、大腿部の裏、腰、背中の順で接地させる事でうまい具合に衝撃を緩和したらしく、体を起こそうとするその目は未だ闘意を失ってはいなかった。
 
しかし求馬とて相手が立ち上がるのを大人しく待ってはいない。起き上がって来る動きに合わせてすかさず右手の甲を取ると、左手で肘を制した状態のまま踏み出し、うつ伏せに押さえつけた。
 
腕力ではなく体の重さを生かした、見事な斬り下しだ。
 
「くっ――」
 
うつ伏せの状態で片手首と肘を制されてしまえば、流石に動きが取れなくなる。常識の域にある使い手に過ぎなかった相手は、悔しげに唸りながらもそこで敗北を認めた。
 
 
「…勝てた」
 
三度目の勝利に、求馬は何かを通り抜けたというような確信を深めながら自分自身に頷く。
 
(強くなった――いや、コツを掴んだというべきなのか……?)
 
求馬の力の源と云うべきものは、長年の訓練の中で帆足から既に学び取っていたものなのだろう。しかし試合という舞台に上がって初めてそれは形を持ち始めた――自信という確かな形を……。
 
振り返った先に、頼もしげなイルカの笑顔を見つけて笑い返す。
 
しかし本当なら最も喜んでくれる筈の帆足の顔には、笑みはなく……。
 
(どうして……)
 
もともと笑わない男ではあったが、その表情の複雑な色に、それだけではないという事を改めて確信する。
 
次の試合に立つ帆足と擦れ違いながら、求馬は理解出来ないその変化にどうしていいかもわからず、ただ途惑うばかりの自分が歯痒かった。
 
「……ご苦労様」
 
そう言って優しく笑いかけてくれるイルカに、もしこの場に二人きりだったとしたら縋りついてしまっていたかもしれないとすら思う。
 
(せっかく強くなれたと思っても、こんな事じゃ……)
 
そう自嘲しつつ、先程後にしたばかりの闘技場を振り返る。
 
そこでは、師であり部下であり友でもあった筈の男の試合が始まり、早くも決着がつこうとしている所だった。
 
 
 
 
蒼牙チームの次鋒は先の試合を見て投げられる事を警戒したのか、組まずにまず連打の攻撃に出た。
 
しかし拳は帆足に尽くかわされ手刀も叩き落とされて、更には僅かな隙に当て身を入れられ、体勢を崩した所を一撃で倒されてしまう。
 
その技のキレを考えても、受けた衝撃は求馬の技の比ではない。結局相手は立ち上がれず、試合は早くも嵯巌チームが二勝を数える事となった。
 
先鋒戦に続く大番狂わせに、観客はどよめき、思わぬダークホースの出現に湧き上がる。
 
攻撃を仕掛けたのは殆ど負けた方だけで、勝利者は息一つ乱す事も無いまま。
 
それは誰が見ても文句のつけようが無い、圧倒的な勝利だった。
 
 
「ちょっと――これじゃあの男が勝っても、チームとしては負けちゃうじゃないの!」
 
自分が賭けたチームのあまりの不甲斐無さに、英保は思わず誰にともなく怒りの声を上げた。
 
「うむ……ここまで総合力に差があったとはな。しかし団体戦である以上は仕方あるまい……」
 
闘いに関する事での宇賀耶の勘を甘く見ていたらしい……と、感心半分呆れが半分といった口調で言うのは守矢だ。
 
「まあ次の試合で嵯巌チームも一人は間違い無く怪我を負う事になる。本選で対決する事になればそれで多少は有利になるだろうし、まあいいとしておこう」
 
「なに納得してるのよ守矢! 奢るのよ? この遠慮とか限界とかいう言葉を母親のお腹に忘れてきたような男に奢んなきゃならないのよ? 私のお金が勿体無さ過ぎるじゃないのっ!」
 
賢明にも物事を広い目で見る事で自分を納得させようとした守矢のその努力を、英保は自己中心的な視点できっぱりすっぱりと切って捨てた。
 
「出たよ我侭守銭奴……」
 
「……やつあたり大王」
 
ひっそりと囁かれる仲間の言葉に、チームの人間関係が垣間見える。
 
「まあ落ちつけ英保、勝利の行方はまだわからんだろう? 次の試合で勝てば後二人……。嵯巌チームの大将はどうやら名ばかりのものらしいし、まだまだ逆転は充分に可能な筈だ」
 
イルカを指してそう言う守矢に、ようやく英保が大人しくなったかと思うと今度は宇賀耶が大笑いを始める。
 
「ぶふっ! お、お飾りっ、はははっ確かに飾っとくだけでもご利益ありってか、ははははっ」
 
「おい宇賀耶……?」
 
「ははっ、ホント面白い事言うぜ守矢も。……でも残念ながらアイツまでは回らねーんだろうな……」
 
そう言って本気で残念そうに目を眇めた宇賀耶のその視線の先には、中堅として競技場に昇ろうとするカカシを呼びとめる、イルカの姿があった。
 
 
 
 
「はいはい次は俺の番ね……」と、あまり気乗りしなそうな様子で試合に向かうカカシを、イルカが追いかけて呼び止めた。
 
「――カカシ先生!」
 
その心配そうな顔、子犬の様に素朴な瞳に一瞬目を引かれつつも、内心「うわ〜心配されちゃってるよ俺、中忍なんかにさあ」などと、アスマが聞いたなら眉をしかめそうな事を考える。
 
「イルカ先生、大丈夫ですよちゃんと俺で終わらせますから」
 
それでも表面上はにっこりと優しげに対応するカカシをじっと見つめ、小さな声でイルカは言った。
 
「……先程の技以外にも、彼らは様々な暗器を使う一族として有名です。まだ大会は序盤、くれぐれも怪我などなさらないでくださいね……」
 
「は?」
 
言いたい事は伝えたとペコンと頭を下げると、呆然とするカカシを残してイルカは元いた場所に戻る。
 
「…――は?」
 
イルカはカカシの戦う相手がもしかしたら暗器を使うかもしれないと言った。
 
それはいい、何故イルカがそういう事に詳しいのかは兎も角としても、助言として別におかしな点はない。事実相手が周囲に知られぬ様隠し武器を使う程の技術があるなら、十分に警戒する必要があるだろう。
 
でも……。
 
(まだ序盤だから怪我をするなって――そう言った訳?…あのイルカ先生が……)
 
カカシの怪我を心配したというよりも、その言い方ではまるで……。
 
見つめた先でイルカがきょとんと不思議そうにしている。それはいつもの無害な、(お人好し過ぎる所が少しイライラとさせられもするが)何処にでもいるような平凡な男の姿だった。
 
「――馬鹿らし、何を考えてるんだか俺も……」
 
ポツリとこぼしてイルカの姿を振り切る様に足を踏み出すと、カカシは対戦相手である細身の男へと、半座りの眠たげな目を向けた。
 
相手の顔は自分の勝利を微塵も疑っていない。そんな奴の鼻っ柱をへし折るのは普段の任務には無い楽しい趣向だと思う事にして、乗らない気分に発破をかける。
 
 
「まあ…お手柔らかによろしく……」
 
 
その台詞を鼻で笑って見せた男に、カカシは彼を知る者が見たならうそ寒くて思わず鳥肌の立つような、綺麗な微笑を浮べて見せた。
 
 
 
 
 
 
更新日時:
2005/08/10

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Last updated: 2005/8/23