「――あいつ……何か変な薬でもやってるんじゃないのか……?」
不気味そうにカカシを見てそう言った求馬に対し、無理も無い……と、アスマは心の中だけで呟いた。
今朝からどうもカカシの様子がおかしいのには気付いていたアスマだが、敢えてその事に突っ込まなかったのは、機嫌良くイルカに纏わりつくカカシに、なんとなく事情が読めてしまったからだ。
(昨夜、何かあったな……)
つい昨日までいらいらとイルカのやる事なす事に文句をつけたそうな顔をしていたカカシが、一夜明けただけで百八十度その態度を変えているのだ。求馬でなくともおかしいと思うだろう。
(これまでの態度もある意味露骨だったが、……それにしても――)
「――まさか、ここまでガキだったとはな……」
「ん? 何か言った、アスマ」
カカシがぐるんとアスマの方に振り返った。
「い〜や。それよりイルカは何処行ったんだ……?」
試合観戦の場所を確保してからカカシに何事か耳打ちして消えたイルカは、もうすぐ第一試合が始まるという時間になっても帰ってこない。
「オススメの美味しい弁当を買って来てくれるって言ってたけど……ホント、ちょっと遅いかも……」
迎えに行こうかな〜……などと、何処へ行ったかもわからぬくせに、闇雲に駆け出そうとしたカカシをアスマは止める。
「止めとけ、ガキじゃないんだ、すぐ戻ってくる」
「でも……イルカ先生見るからに人が良さそうだから……もしかしたら誰かに絡まれて戻ってこれないのかも……」
「………」
――そんなタマじゃねーだろアイツは……。
極端から極端に走る奴だ……と、アスマは頭を抱えたくなった。
イルカとカカシが仲良くなるのは歓迎できる事だったが、この任務が始まってからは、ただの平凡な中忍だと思っていたイルカに意外と強かな一面を感じ始めていたアスマにとって、鋭い筈のカカシのこの特殊な思考ボケぶりはまったく対応に困る。
そうこうしている内に試合が始まり、対戦する二つのチームの先鋒が、闘技場中央に進み出た。
「ちょっと君、見えんよ! ちょっと周りの事を考えてくれたまえ」
イルカの姿を探してか、身を乗り出すようにして周囲を見回していたカカシに、後ろから叱責の声が上がる。
「――ん? アンタ……」
声の主は偶然にも、昨日出会ったばかりのあの私市だった。
「なんだねまた君達か……。出場者とはいえ今はただの観客なのだから、マナーはきちんと守って観戦してもらいたいものだな……」
自称武闘評論家は、嘆かわしいとばかりにノートと鉛筆を持ったまま、器用に眼鏡の位置を正す。そして再び闘技場に目を移すと、ブツブツと嬉しそうに喋り始めた。
「ふむ…孜艮(しこん)流拳闘術対南山林拳の一派か……。この試合はなかなか面白いぞ」
どうやらこの試合、私市の解説付きという事になるらしい。
「また五月蝿いのがよりによって……」
これだけ多くの人波の中で、なんでまたわざわざ俺の後ろに……とぼやくカカシを他所に、試合は待ちに待ったという歓声を伴って開始された。
その頃イルカの方もまた、絡まれてこそいなかったが、いささか困った状況にあった。
「――お持ちします」
「いや…いいから、あっち行ってくれ……」
かつての顔なじみに見つかってしまったイルカは、弁当を持つと言い張ってついて来るその人物を、どうやってまこうかと頭を悩ませていた。
(…ここに来ればそのうち会うことになるとは思ったけど……)
まさかこんなに早く見つかってしまうとは思わなかったと、イルカは困った様子を隠そうともせずに、かつての知人のその昔よりも高い位置にある横顔をちらりと伺う。
人ごみの中から昔とはかなり印象の変わった筈のイルカを見つけ出し、その後にぴったりと続いて離れようとしないのは、この地特有の情熱的な蜂蜜色の肌を持ちながら、どこか鋭い刃物のような無機質さを感じさせる、只者ではない風情の長髪の美女だった。
そんな迫力の麗人が、民族衣装にも似た独特の闘着をなびかせて平凡な男の後に付き従う様は、どこか異様なものがある。ましてやその闘着は、この地では有名なある民族の戦闘服なのだ。その注目度は尋常ではない。
まさかこんなのを連れたまま戻る訳にもいかないと、イルカは不本意にも、先程からどんどん目的地から離れる方向へと足を進めることになっていた。
「いくらシードされてるとはいえ、こんな所で遊んでる場合じゃないだろう漢那(カンナ)。真謝(マシャ)の元に戻らなくていいのか?」
漢那と呼ばれた長身の美女は、その無表情を崩すことなく、それでもどこか感情を滲ませた声音で応えを返してくる。
「必要ありません。私以外にも傍仕は大勢います」
「真謝は今頃カリカリしてるぞ。お前の事をきっと一番に頼りにしているのだろうし」
「真謝が何と云われようと、私の主は今も昔もただ一人。私に命令できるのも――あの方と…そして貴方だけです」
「死んだ人間と逃げた男に忠誠を尽くして、一体何の意味がある……」
かつての部下だった女に向けられたイルカの言葉には、木ノ葉の平凡な中忍であるイルカには似合わない、どこか冷たく嘲るような響きがあった。
その嘲りが自分に対するものなのか、全てを放り出して逃げた男を未だに自分達の総締めとして慕う女に対してのものなのかは、イルカ自身にもわからない。
――もう全てがどうでもいい事だ……。
地位も名誉も全て、あの存在があって初めて意味を持つ事だったのだから……。
「この大会のシード権も、本当ならばあの方と貴方が手にすべき筈のもの。今からでも遅くはありません……どうかお戻りください……」
ただ後を着いてまわっても埒があかないと思ったのか、とうとう漢那は僅かに声を荒げて言った。
瞬間、ビリッと痺れるような感覚が、その漢那を襲う。
目の前の、特に大きくも無ければ鍛えられているようにも見えない――平凡な背中。
しかしそこから発せられた見えない力の圧力に、戦うことを生業とするエスニックの女戦士は思わず足を止めていた。
「いい加減俺のことは忘れろ。……あれからもう四年だ、今更戻れるわけがないだろう? それに真謝は絶対に俺を許さない。ただ裏切っただけじゃなく、俺が真謝の最愛の存在を殺したようなものなんだからな……」
静かな言葉と共に放たれた、悲しみと唸るような怒り。
それが自分に向けられたものではないとわかっても、その言葉の全てが真実を言い当てているとは云えないと知っていても、全てを拒否する背中に掛ける事のできる言葉など無く……。
イルカはそのまま振り返りもせずに足を進め、しだいに二人の距離は広がっていく。
茫然と見送る漢那の顔が、歪んで僅かに俯いた。
「……忘れろと言うなら、何故戻ってきたのですか……今も多くの者達が、貴方の帰りを待ち続けるこの地に……」
こぼされる嘆きはどこか不実を責める女の恨み言に似て……。
「戻っていただきます……必ず――必ず我らの元へ………」
続く声に限りない覚悟が込められていた事を知らぬまま、イルカの姿は遠ざかり、そしてとうとう漢那の視界から姿を消した。
「イルカ先生遅いですよーっ、もう始まってますって〜」
カカシのどこか甘えるようなその声に、張り詰めていた気が急速に弛んでいくのを感じ、イルカはそんな自分に苦笑する。
「――すいません遅くなっちゃって。でもお待たせしただけの価値はありますよ、この弁当は……」
「待ってたのは弁当じゃなくてイルカ先生です! さっきからお坊ちゃまは生意気だし、帆足は喋らないし、アスマは髭だし……その上評論家センセイはもう滅茶苦茶ウルサイしで、もう帰っちゃおうかな〜とか思ってたんですよー!」
ナグサメテクダサイヨーと泣き真似までして見せるカカシ。
「俺の髭がお前に何か迷惑を掛けたのか……」
むしろ掛けられてるだろ……と、疲れた様子で呟くアスマにこっそり同情しながら、イルカはカカシの横に立った。
「イルカ……何か今日変じゃないかこいつ……」
そっと横から耳打ちしてくる求馬に、何が言いたいのかすぐに察したイルカは、「昨日ちょっと餌付けしたら、懐いちゃったんです」と笑って小さく返す。
上忍を餌付けしたとか懐いたとか言うイルカにも呆れるが、何故地獄耳の癖にこれが聞えないのかと、相変らず機嫌良くイルカに話かけているカカシに、首を捻るアスマだ。
「おお君も来たのかね、大会のレベルに驚いて逃げ帰ったのかと思ったぞ、感心感心――…」
「私市さんでしたね、こんにちは。今日も良い大会日和で……ところでどうですか? 今日の試合は……」
馬鹿にしてるのにもされてるのにも気付いてないような二人の会話を、どこか遠くでまったりと聞きながら、一行は試合の方に改めて集中する。
「うむ……どうやらこのブロックはあのチームが勝ち残りそうだな」
「ああ、あの…孜艮流のチームですね。前回も孜艮流は出てましたっけ、そう云えば」
「ほう…四年前の大会も見たのかね、君は……」
「はい。でもあまり前回と変わり映えしない試合内容ですね。これで残るようならやっぱり私市さんのおっしゃっていた通り、今年はレベルが低いのかも……」
「そ、そうかね……」
レベルが低いとイルカの言うこの大会は、しかし求馬だけでなくカカシやアスマの目から見ても、先程から中々の実力者達による好試合が繰り返されている。
確かに孜艮流拳闘術を名乗るチームが有利であるのは間違い無さそうだが、相手チームの男達の筋骨隆々の体から繰り出される派手な気功もまた、中々に目を見張るものがあった。まただからこそ、それほどの威力のある攻撃を簡単にかわして確実に決められていく孜艮流の技の多彩さに、こうして観客達も感嘆の声を上げているのだ。
現在行われている三つのブロックの試合の中でも、最も盛り上がっていると言えるのが、目の前のこの試合だろう。
「これで…低い――?」
思わず求馬の口からもれた言葉は、口にこそ出さなかったがカカシやアスマの思いでもある。
そんな空気に気付く様子も無く、何事か考える様にしばらく視線をさまよわせていたイルカは、唐突に「やっぱり作戦を変えましょう」などと言い出した。
「最初の三人で確実に勝負を決めるという事になってましたけど、求馬くんも本選でいきなり強い相手と戦うより、予選で少し試合の雰囲気に慣れておいたほうが方がいいんじゃないかと思うんです」
その突然ではあったが至極尤もな提案に、毒気を抜かれたような様子でアスマとカカシは目を見合わせる。帆足は常の通り意見を控えたままだったが、結局誰もその意見に異を唱える事は無く、作戦は変更という事になった。
求馬の喉が、期待かそれとも緊張の為にか、コクリと小さく音を立てる。
その音にかぶさるようにして沸き起こった歓声の中、求馬は更に食い入るようにして試合の経過を追い続けた。
*
「総締め、どちらにいらしてたんですか?」
ずっとお探しでした……という部下の言葉に、比嘉家傍仕現総締めを任されている長身の美女は、目だけで頷いてみせるとすぐに奥の部屋へと向かう。
数人の部下を引き連れ向った先には、多くの傍仕に囲まれた中、将を意味する青の闘着を纏った青年が、背もたれのある大きな椅子に座り目を閉じている姿があった。
漢那の気配に気付いて、苛立たしげに開かれたその瞳の色は――王者の黄金(きん)。
しかし青年の名に相応しくまだどこか青さの残ったその姿からは、漢那がかつて何よりも圧倒された姿と同じだけの存在感(はくりょく)はなく。神経質な仕草で踏み鳴らされる足が、その短気な性格を伺わせるだけ……。
「遅かったな……何処へ行っていた……」
声からもまた、彼女が恐れながらも慕わずにはいられなかったあの鋭くも澄んだ響きは感じ取れない。よく似た声音であることが、かえってその資質の違いを際立たせているようですらあった。
「――申し訳ありません……」
漢那は言い訳も無く、ただ無表情に視線を目の前の若い主へと向けた。そこにはイルカに相対した時には垣間見せていた、激しい感情の欠片すらも見当らない。
まるで無機物のように温度の無い眼差しを向けられた青年は、気圧されたのを誤魔化すように大きな声を上げた。
「まあいい……っ。だが、今後は俺の傍を無断で離れるな!」
癇癪とも取れる叱責が、その端整な容貌により未熟な青さを加えている事に、どうやら本人だけは気付いていないようだ。
それ以上何の咎めも無い事にまた一つ失望を感じながら、漢那は静かに若い主の背後に立つ。
定位置から主の頭を見下ろす瞳は、どこか遠い。
確かに目の前のものを映しながら、まるでここに無い別の何かを見つめているかのように、それは静かに褪めた色を湛えていた。
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