「絶対にやられぬという精神があれば、そうそうやられる筈は無い……」
それをひょこひょこと簡単に倒されて、こちらがイライラしてくる……そう言って目の前で繰り広げられる訓練の様子を見据えていた黄金の瞳の女は、腕を組み一つ頷いて見せる事で訓練の延長を告げた。
彼女はいつだって厳しかった――自分に、そして彼女が認めた者達には。
それを知っているからこそ、彼女の怒りは恐怖であると同時に、皆にとって喜びでもあったのだ。
「倒そうとして倒されるは、恥ずかしいことと思え! 思えぬなら最初から、負け犬と名乗るがいい――」
あんなに激しい人間を他に知らない。
人々を叱咤する彼女の姿は、その細い体からは信じられない程の力に溢れていて。なんという存在なのだろうと、いつもその輝きに圧倒される思いだった。
誇り高く、強い心を持ち。
何よりも深く、一族を愛していた女……。
けれど一つの伝統の頂点に立つべく生まれ、そう育った彼女にとって、最大の敵もまた、その伝統の古いしがらみにこそあった。
「先人を敬うのはいい、だが過ぎるのは盲目と変わらぬ」
遠い目でそう口にした時には、既に彼女の目にははっきりと兆しが写っていたのだろう。
何時の間にか訪れていた斜陽。
守護神と謳われたた偉大な長が病に倒れた時、既に一族は伝統と共にその勢力を周囲の一族に侵されつつあった。
そんな中で長を代行する事になった彼女は、まだようやく一八を数えたばかり。
しかしそんな彼女の行なった改革は、一族のあり方を根本から変え、新たな場所へと導くものだった。
「昔のやり方を守るだけでは駄目なのだ。ましてや形を守るだけなど問題外……!」
「時と共に常に世界は進歩している。ならば我等も変わらねばならない。今の時代に応じた技と術を吸収し、新たな力を手に入れるのだ!」
空手、柔術、合気…その他あらゆる物を研究し、それに対抗する手段をもまた取り入れていく。
そんな彼女の示す道を行く事で、気がつくと一族は、屠られる時を待つ手負いの獲物から新たな脅威として、数多い少数民族の中でも恐れられる存在へと変わっていた。
勿論その先進を嫌う者もいた。特に一族の長老達は、彼女の暴言とも云える言葉の数々に眉をひそめて、古くからの伝統の大切さを繰り返し訴えたものだ。
しかしそれでも彼女が上に立つに相応しく無いと口にする者だけは無く。その存在ある限り、一族はかつてない結束と繁栄を約束されていることを誰もが信じていた。
「精神を鍛えよ! 自分は駄目だと言って、周りもそれを認めたらそれで良いという事になってしまうぞ」
「恐ろしいという思いすら秘めて誰にも言わぬことだ――そこから生まれる我武者羅な気力こそが、我らの誇る比嘉の魂だ!」
器こそ変わっても、その魂のあり方はいつだって彼女の心に、ひいては皆の胸の内にある。
一族が最も幸せで、充実していた時代。
誰もがあの烈火の気性に――熱い魂に触れ、共に燃えつきたいと――。
そう願っていた…――。
「―――…イルカ」
呼ばれて回想から立ち返り、イルカはいつになく慌てて、声の主に目を向けた。
目に写るのは当然あの懐かしい褐色でも、眩しい黄金の輝きでもない。
それほど変わらない背丈で覗き込む様に伺ってくるのは、今回の旅のきっかけである、依頼主の求馬だった。
「どうしたんだ、ボ―っとして……」
「すいません――ちょっと睡眠不足なのかも……?」
我ながら歯切れの悪い言い訳に、心の中で薄く笑う。
(もう、随分思い出しもしなかったのに……)
会っている時は考えていたよりもずっと冷静でいられる自分を感じていられたのに、やはり過去を知る者に出会ったことは、自分をかなり動揺させていたらしい……と、イルカは求馬を安心させるように微笑んで見せながら、わからぬ様に小さく一つ息を吐いた。
予選を明日に控えたこの日、求馬とイルカは少し体を解しておくという名目で、試合の見学に向かう皆とは別行動をとっていた。
軽く走って着いた場所は、阿南に数多くある訓練場の中でも、特に小さく目立たない場所だ。特に今は予選の最中という事で、人の姿は影すらも見当らない。
「変わらないな……」
この地特有の湿った空気に心地良さを覚えながら、イルカは求馬が話を切り出してくるのをのんびりと待った。
「――イルカ……」
しばらくすると思いつめた表情で黙りこくっていた青年が、ようやく決心したように口を開いた。
体を解すというのはあくまで建前で、イルカの目的は緊張してこのままでは実力の半分も発揮できないだろう求馬の、気持ちの方を解すことにあった。
――そう、最初の予定では……。
「イルカ……俺の力はこの大会で通用すると思うか?」
「……求馬君――」
縋るようなその問いに、君なら大丈夫だと云うつもりだった。それが気休めに過ぎないのはわかっていたが、相手が求めているのこそ、まさにその気休めなのだとわかっていたから。
しかし……。
今も耳に残る彼女の声が、何故かイルカに違う言葉を口にさせていた。
*
――俺の力はこの大会で、本当に通用するのだろうか……?
そんな不安を口にする事は、きっと他の誰の前でも出来なかっただろう。
相手がイルカだからこそ。
この穏かな顔の忍は、求馬にそんな風に思わせるような雰囲気を確かに持っていた。
長年共にいる帆足に対するものとも微妙に違う、不思議な信頼感のようなもの。それがこの短い旅の中で、求馬の中に急速に芽生えていた。
しかし、イルカから返って来た言葉は思っても見なかったもので……。
「昨日の試合で負けた方の――南山林拳…でしたっけ。 ……彼等の気功を相手にした場合、求馬くんならどう戦いますか?」
「え……どうって……?」
いきなり問いに問いで返されて途惑う求馬に、イルカは変わらぬ穏かな口調のままで続けた。
「勝つとか負けるとかは結果ですから、そんな事を戦う前から論じても意味はありません。問題なのは、どうすれば勝てるかという事――」
先の疑問には答えられなくても、勝つ方法を教える事はできる――何でも無い事の様にそう言い切ったイルカの黒い瞳は、いつもと変わらず真っ直ぐて嘘が無い。
しかし同時に、どこか深くて得体が知れない力を秘めているようにも思えてきて、幾度も求馬は瞬きを繰り返した。
*
予選三日目の試合がすべて終わる頃には、周囲は薄く夜の兆しを見せ始めていた。
「問題は、例の本格武道派とかふいてる奴等だな……」
アスマは煙草の煙を空高く吐き出した後、誰にとも無く呟いた。
予選を丸二日見た限りでは、自分達の実力を遥かに上回るような武闘家は見当らなかった。その事にはホッとするも、問題なのは求馬の事である。
あの若者を無事領主の座に即ける事が目的なのだ、勝ち残るのは勿論の事、ここで万が一にも後遺症の残る大怪我や命を失うような事があっては困る。
「で、実際の所どんなもんなワケ? あの依頼主様の実力の程は……」
ふざけた口調で問うカカシを制しながらも、目で同じ疑問を帆足に向ける。
その問いに対する帆足の答えは極めて簡潔だった。
「――強い」
「それだけかよ……」
どこか不機嫌に吐き捨てたカカシに、帆足はもう一言だけ付け加える。
「長じれば俺を超えるのは間違い無い……」
「拳聖を超えるとはまた――」
大きく出たもんだと感心しながらも、何か引っかかるような感覚に、アスマは問いかけるようにカカシの方を見た。
しかしカカシはどうも先程から心ここに在らずという感じで、今はブツブツと何やら歌うように文句をもらしている。
「――おっさんおっさんおっさんだらけ、ああ癒される……っと」
「鬱陶しいから止めろ、カカシ」
「五月蝿いよアスマ。あ〜あ、俺もイルカ先生と一緒が良かった……きっと美味しい物食べてるに違いないんだから」
どうもカカシの中で、美味しい食べ物とイルカは今や密接な関係にあるらしい。
「お前がそんなに食べ物にこだわる奴だとは知らなかったぜ……」
「俺は川で魚でも取ってりゃいいアスマとは違って、美味しい物には目がないの! ――ああそれにしても腹減った、早く帰ろうって。きっとイルカ先生が美味しい夕食を用意してくれてるから」
その予想通り、宿に帰りつくとイルカが特注したスタミナ料理の数々がアスマ達を待っていた。しかし、肝心のイルカと求馬は、まだ帰っていないという。
「何かあったんじゃ――」
あれだけ楽しみにしていた食事には見向きもせず、カカシが血相を変えて宿を飛び出そうとした時。
「ただいま帰りました」
「――帰った……」
いつもと全く変わらぬイルカの笑顔と、それとは対称的に疲れきってボロボロの、しかしやはり笑顔を浮べた求馬が、宿の入口から共に姿を現した。
「イルカ…お前が付いていながら何が――」
求馬のくたびれきった様子は明かに何かの特訓の跡である。
しかし試合の前日にここまで体を酷使するのは、あまりに非常識だった。ただ明日に響くだけで益となる事は何も無い。そんな事は云われずともイルカにも当然わかっている事の筈だ。
そもそも求馬をリラックスさせる為に、わざわざ別行動を取ったのでは無かったのか……。
「明日から本番だってのに、一体何を考えて……」
そのまま絶句するアスマに、イルカはやはりいつもの笑顔を浮べたまま言った。
「泥だらけなんで先にお風呂いただきますね。皆さんは先にお食事なさっててください」
そして求馬を支えるようにしてそのまま行こうとする。
「求馬様!」
「大丈夫だ、怪我は無いし、見た目ほど疲れてもいない」
それまで無言だった帆足がようやく口を開いたが、振り返って向けられた主の言葉とその表情に、再び声を失った。
「何なんだ――ヤケに良い顔してるじゃねぇか、若様は……」
アスマもようやく自分の思い違いに気付く。
求馬はただくたびれているだけではなかったのである。その様子は明かに、明け方別れた時とは違っていた。
思いつめた様子など既になく、やるべき事を終え全てにおいて万全を期したかのような、どこか満足げな余裕さえもが見受けられる。
「リラックスしたどころか……イルカの奴、一体どんな魔法を……」
呆然と二人を見送るアスマの隣には、表情の乏しい顔を心持ち呆けさせたままの帆足と、
「やっぱり二人で美味いものを食べたんだ……――いや、もしかしたら美味い酒か……?」
相変らずそんな馬鹿な事を言いながら、何故か羨ましそうに指を咥えているカカシの姿だけが残された。
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